【#31】屋上広場【Sandwiches'25】

 
 
 
 

自宅の隣駅にあるデパートの、その屋上には「コモンスペース」などとざっくりした看板のかかった広場が開かれており、周辺住民の憩いの場、ということになっている。

芝生の敷かれたスペースと、場末のフードコードのような、簡素な椅子・テーブルの設置されたウッドデッキ。それから、一番奥まった場所にはほとんど存在感のないカフェがある。そこで、その意味はよくわかっていない「ロング・ブラック」(なんとなく持続力のあるイメージ。なにが「持続」されるのかは知らない)のショートサイズ、深煎りのエスプレッソ……を買い、片手にちびちびすすりながら、本を読んで過ごす。

平日の昼間。混み合っている様子はなく、設置されたテーブルのそれぞれに、ぱらぱらと座る人々がいるのみだ。ビールを片手にスマホを見つめる老人。参考書を広げる高校生のカップル。ベビーカーを押す母親。あっ、よく見ると芝生にひとり、横たわって眠っている様子の若者がいる。近くの大学の生徒だろうか。朝まで飲んでいて、その帰りとか。「コモン」な空間にあって、そのありようはそれぞれ自由である。

「人間観察」のような趣味はないので、それ以上のディテールを読み取ろうとじろじろ見つめるようなことはしない。じっと手元のページに視線を落とす。自らも風景に埋没するように。平日の昼間からぶらぶらしているひげ面の三十路男がどう見えるかは知らない。捲っている本の表紙に大きく書かれたタイトルは『いつの日かガザが私たちを打ち負かすだろう』。それもどう見えるだろうか、やはり知れない。

東京、神奈川、長野、山形、福岡、長崎。9月はライブでさまざまな場所に出かけていった、いつになくたくさん歌った、たくさんの人と会って話した。実家にも帰り、両親や祖父母とも言葉を交わした。めまぐるしい旅のひとときはもちろん喜びに満ちたもので、そのこと自体きっと幸運なのだった。が、外界との接点が一時的に急増した反動だろうか、こんな「コモンスペース」にまで出かけて、ひとりもくもくと読書に耽るような時間がどうにも必要に思えたのは。

一定期間、「社交」モードに開かれていたマインドが、閉鎖的な状態へと移行していく感覚。ずっとフタを開けっぱなしでは、瓶の中身も渇いてしまうというか。おのれを腐らず保つためには、キャップを固くしめている時間も欠かせないだろう、きっと。

ただ、他人と会う・会わない時期があまりに極端だと、弊害もある。なんせ、すぐに話し方を忘れる。しゃべりながら「あれ、話題の運びとか、トーンとか、そもそもの言葉遣いとか。こんなもんでいいのだっけ」とはてなマークが浮かんで消えない。自分に備わった社会性がどれほどのものか、年々、自信が無くなっている。会社勤めをしていたころは、多少は普通らしい、「社交的」なしゃべりができていたような気もするが。それ自体、勘違いだったのかもしれないけれど。

自分の書く文章、詩、ラップの歌詞、なんでもいいが、そこにある言葉がどれほど開かれたものであるか、フレンドリーに受け取られているのか、正直心許ない。どちらかと言えば他人にとってそれらは「閉じた」印象なのではないかと推察している。だからといってその開き具合を自在にコントロールできるほどわたしは器用ではない(という開き直りこそが「閉じた」ゆえんかしら?)。どんな語りであれば開かれていることになるのか。そもそも、開かれていることが善しかどうか。明確な答えもない。

料理に目分量で塩こしょうを振るように、適当に言葉を連ねてきた。果たしてこのままで大丈夫だろうか。大丈夫って、なにが? 言葉の運用は、己の生き方そのものとするならば、わたしは、出口もない場所へと自分を追いやっているだけではないか。

目線をあげ、いま自分の座っている「コモンスペース」を今一度見渡してみる。ぼんやりしているうちに、人が増えている。保育園帰りか、賑々しく集った人々の多くが子ども連れだった。いくつもの小さな身体が、芝生のうえでころころと躍動している。きゃっきゃっと笑う声。また別のところでは、泣いている声が聞こえる。

たとえば自分の書く言葉が、小さな子どもたちに届く可能性があるかどうか。想像してみる。うーん。やはり、簡単ではないかもしれない。でも、なにか話せたらうれしい気もする。それはなぜだろうか。通じ合うことの喜び。孤独でないという実感。世界からひとつの応答を得たことの安堵感か。それ自体幻のようなものだとしても、繋がりへの信頼こそが生きる縁(よすが)か。

ふと、携帯の着信通知が入る。仕事の連絡だ。とある広告のために、新しい曲を書くことになっている。その〆切についての連絡だった。お腹も空いたし、ひとまず近場でラーメンでも食べよう。それから家に帰って、歌詞を書こう。わたしは本を閉じ、席を立った。

……歩きながら振り返ると、一組の親子連れがわたしのいたテーブルにつくのが見えた。ずっと待たせていたとしたら、申し訳ない。と、その母親がごしごし、天板をウエットティッシュかなにかで拭っている。わたしは汚したつもりはなかった。もとから汚れていたのか? そんなことがどうにも気になった、次の瞬間、足元の段差に躓きぐらり、よろめいていた。

ああ! 幸いにもコケることはなかったが、周りの視線を感じ、羞恥心に頬がかっと熱くなる。世界に、ある「コモンスペース」に身を開くならば、こうした恥をかく覚悟も必要だろう。たぶん。照れ隠しのように、側にいた少年のひとりに笑いかける。彼はほんのひとときわたしを見返し、すぐに目をそらした(そりゃそうだ)。もちろん通じ合えたわけではない。とはいえ、偶然でも視線の交わる瞬間があった。そこには、きっと言葉の開かれる余地も残されているはずではないか。そう思いたいだけだろうか?(2025.10.11)

 
maco marets