【#34】ピーナツバターならサンドイッチに【Sandwiches'25】
先日、南町田にある「スヌーピーミュージアム」に行く機会があった。訪問はたしか2度目か、3度目くらいか。自宅から比較的アクセスしやすい立地であることから、たまに足を伸ばすことがあった。その日も気まぐれに、買い物ついでとばかりに出かけたのだった。
現在は「ピーナッツ」誕生75周年を記念した企画展「ザ・スヌーピー展 世界のともだちになった犬。」が開催中で、駅からミュージアムまでの道のりにも複数のスヌーピー・スタチューが立つなど、特別な祭りの雰囲気に包まれている。展示物の点数はそこまで多くないけれど、作者であるシュルツ直筆の原稿や、各国のコレクターから集められたという75年分のスヌーピーグッズなど希少なアイテムがさまざま飾られていて、楽しく回遊した。
英語教諭であった母の影響で、幼い頃から「ピーナッツ」作品には触れていたと思う。最初に出会ったのはおそらく、原作コミックではなく古いアニメ版のほう。これはTV放送されていたのか、VHSで視聴したのか定かではないけども、ダビングしたテープか何かがあったのか。一度と言わず、繰り返し観ていたように記憶している。
アニメ「ピーナッツ」の中で特に鮮明に覚えているのは、主人公のチャーリー・ブラウンが学校のお昼休みに食べている「ピーナツバター・サンドイッチ」の存在だ。自分には馴染みのない60年代・アメリカの子どものお弁当。ガサガサっとした無骨な紙袋に包まれたそれに、無性に憧れた。
当時はピーナツバターの味も知らなかった。ただその見た目と、それから「ピーナツバター・サンドイッチ」という響きに心惹かれていたのだと思う、幼いわたしにはそういう「外来語ミーハー」とでも呼ぶべき趣向があったから(小学生のころ作っていた「好きな言葉ノート」には、他にも「バジリコ・スパゲッティ」とか、「ブルーベリー・ジェリービーンズ」とか、そんなフレーズが並んでいた。ある意味、今と変わらない趣味ではあるが)。
その後、親にねだって「Skippy」のピーナツバターを買ってもらい、実際にサンドイッチを作って食べたことも覚えている。初めての風味に戸惑いながらも、「これがチャーリー・ブラウンがいつも食べている味か」と、まるで自分も「ピーナッツ」の世界に入り込んだような気持ちになって嬉しかった。美味しい食べ物として、というより、物語の世界と自分とを接続するためのアイテムとしてそれを咀嚼したのだろう。
それからというもの、自分にとってもっともクールな「お弁当」は「ピーナツバター・サンドイッチ」になった。はっきりと覚えてはいないが、周囲にもそれを自慢していたのではないか。普通の弁当じゃないぞ、「ピーナツバター・サンドイッチ」だぞ! お前ら知らないだろ……と。九州の片田舎にあって、ずいぶん鼻につく子どもだったろう。
ストーリーや登場人物の交わすちょっとした哲学めいた問答より、背景に描かれるアメリカの文化・風景に目が行きがちだったのは子どもならではか。物語の味わいを知ったのは、やはり大人になってからという気がしている。
ミュージアムから帰ってきたその夜、「ピーナッツ」の初の映画作品である『A Boy Named Charlie Brown(1969年アメリカ映画/邦題『スヌーピーとチャーリー』)』のDVDを久しぶりに再生した。個人的にもっとも好きな「ピーナッツ」アニメの一本。
先ほどサンドイッチについて触れたけども、『A Boy Named Charlie Brown』ではその出番はほとんどない。ランチの紙袋を抱えているシーンこそあれ、「ピーナツバター・サンドイッチ」の単語が発されることはなかったはずだ(「初の映画作品」だからか、物語は悩めるチャーリー・ブラウンの、小さな冒険にグッとクローズアップした内容になっており、ふだんのTVシリーズにある、日常的な描写は意図的に削られているようにも見える)。
それはともかく。映画の冒頭から、主人公のチャーリー・ブラウンは絶えず頭を抱えている。やることなすこと、どうにも上手くいかない。凧揚げに失敗し、野球の試合ではボロ負け。頭が特別いいわけでもない。毒舌家のルーシーをはじめとする近所の女の子たちにはさんざんバカにされる。彼はすっかり元気をなくし、「きっと僕はダメ人間なんだ」とぼやく。
しかしそんな彼にも、街のヒーローになる千載一遇のチャンスがめぐってくる。失った自信を取り戻そうと参加した校内のスペリングコンテストで優勝し(これは彼の愛犬スヌーピーが密かに協力した結果でもあるのだが)、なんとニューヨークで開かれる全国大会に出場することになるのだ。ここから劇場版らしく、全国優勝という大きな目標を掲げたチャーリー・ブラウンの旅の顛末が描かれていく。
引っ込み思案で臆病、でも誰よりピュアーで優しい心を持った少年、チャーリー・ブラウン。観ているうち、彼の挑戦をまるで自分ごとのように応援していることに気づく。
お話の結末はネタバレになるのでここでは触れない。ただ、旅を終えたチャーリー・ブラウンに友人たちのかける言葉のひとつひとつがじんわりと響きあい、エンドロールの主題歌「A Boy Named Charlie Brown」に至って静かな感動を誘う。
「知ってるかい、チャーリー・ブラウン?」クライマックスで、親友・ライナスはそっと告げる。「世界はまだ終わりじゃないってこと(The world didn't come to an end.)」。
そして映画は、宿敵のようにも思われたあのルーシーが(!)、旅を終えた彼を迎えて言う「おかえり、チャーリー・ブラウン(Welcome home, Chalie Brown.)」というセリフで幕を閉じる。これもとびきり、良い。
いつも自分を呪ってばかりいるチャーリー・ブラウン。でも、周囲の皆はそんな彼のことを愛している、いつでも迎えてくれる。それは一見意地悪そうなルーシーでさえ、同じなのだ。
どんなに悩んでも、失敗してもいいんだよ、みんなそんな君のことが好きなんだよ。いつかきっと、そのことにも気づけるよ……。観ているわたしたち一人ひとりの中にもいる悩める人格=チャーリー・ブラウンを肯定してくれる、あたたかな映画なのだった。あらためて作品を観直してみて、この愛すべき主人公への共感はより深く、強くなったと思う。
なにぶん長い歴史を持つ作品だから、アニメはもちろん、原作コミックもそのすべてを網羅することは到底できない、それほどの熱量を持った愛好家ではない。それでも、小さいころ「ピーナツバター・サンドイッチ」を介して生まれた「ピーナッツ」世界との結びつきは、ままならない日々に対処するためのひとつの参照先として、いつでもその門戸を開けてくれている。「We're all a boy named Charlie Brown~♪」……皆が彼と同じに、おぼつかない小さな子どものように、世界を生きている。その尊さをそっと教えてくれる。(2025.11.8)