【#4】苦い皮【Sandwiches'25】

 
 
 
 

寒い時分だから、おでんが食べたいと思った。お店やコンビニのものは食べるが、意外にも自宅で作ったことはない気がする。同居人に「今夜はおでんでどう?」と聞けば、「いいね」という。それで挑戦することにした。

といっても、一からお出汁を仕込むとか、そんな大袈裟なことをやるわけではない。市販の「おでんの素」をベースに具材を煮込むだけの、お手軽おでんである。スーパーにおもむき、大根、卵、はんぺん、もち巾着などなど、ひと通りの材料を買った。ほとんどの具材はそのまま鍋に入れてしまえばそれでおしまい。せいぜい卵をゆでたり、あとは野菜を切るくらいのものだ。ぽいぽいぽーい、と、イージーな気分である。

ところが。かんたんでいいねえ、とご機嫌に鍋を突っついていたら、同居人が隣から覗き込んで「あれ、」とわたしを睨みつけた。いわく、「大根の皮、剥いてなくない?」と。あ、ほんとだ。鍋の底に沈むそれらは、青々とした皮をつけたまま。うっかりミスだった。

しまった、と冷たい汗が流れるがもう遅い。輪切りにして、煮立ったお鍋の中に投入したあとなのだ。頑張って取り出すこともできないではないが、熱々のそれを一つひとつ皮剥きして再度お出汁につけるとなると、大変な手間になってしまう。それはどうにも、面倒くさい。

こういうとき、それでも黙って皮を剥き直すか、諦めるにしてもせめて素直に「間違った、ごめん」などと言えたらいい。ただ、わたしはつまらない見栄っ張りなのでそうはいかないのだった。「え、おでんの大根って皮付きだよね?」などと適当な返事をしてしまう。

念のため一般的なおでんのイメージを思い浮かべてみるが、ざんねん、皮付きであるわけはない。これでは理想の柔らかさ、じゅわとお出汁のしみ込んだあの食感が再現できないのではないか? 暗い不安が過ぎるが、それでもなお、わたしの天秤は楽をする方に傾いていくのである。

悲しいかな同居人も慣れたもので、「そうだっけ」と首を傾げるだけでそれ以上追求しようとはしない。「そうだよ、皮付きに違いないよ」。わたしの呟きは虚しくキッチンに響く。過ちを正すというのは、大変なことだ。心の中ではすまんと手を合わせながら、いやしかし、皮付きの大根も滋味深いものであるかも知れぬ、と虫のいい期待でもって調理を続行した……。

結局、出来上がった大根は残念ながら手放しに美味と喜べるものではなかった。せっかく時間をかけて煮ているのに、皮はしっかりと筋張った感触を残しているばかりか、噛むとすこぶる苦い。身の部分(という言い方で合っているのかどうか)の柔らかさ、甘いお出汁の味わいが台無しである。主役たる大根の出来を損ねるとは、もはや、おでんという料理そのものの根本を揺るがす事態だろう。とんでもないことをしてしまった。

同居人もこれには腹を立てるに違いない。うっかりとはいえ取り返しのつかない過ちだ、その苦々しい味を噛み締めるにいたってようやく失敗を認める気になったわたしは、つとめて殊勝な顔つきで「皮、苦くない? ごめんね」と頭を下げた。

反応は予想外だった。あろうことかこの同居人、過ちを指摘した当の人物は「そうかな、気にならないけど」と平気なふうで大根を頬張っているのである。まさか。たまたまよくないものに自分が当たったのか、ともう一つ口に入れてみるが、やはり苦いものは苦い。そうだ、大根の皮は苦いものなのだ。それを気にならないというのだから、これは単なる味覚の違いか、なにか。思わず彼人の顔をまじまじと見つめずにはいられなかった。

なんにせよ横着をした自分だけが苦い目をみるとは、因果応報というか、どうにも寓話めいた結果というか、突然に教訓を授けられたような気分である。またいつかおでんを作るときが来たならば、大根の皮剥きだけは忘れまい。ひそかな決意とともに、わたしはもち巾着に箸を移した。これはとても美味しくできていて、よかった。(2025.1.25)

 
maco marets