【#16】アンモナイト・ミスティ【Sandwiches'25】

 
 
 
 

さいきん、ちょこちょことブログの掲載をお休みすることが増え、その際はお茶濁しのように過去の記事をピックアップして投稿することにしている。だいたい3年前、2022年とかそのくらいの時期の自分が書いた文章たち。読み返してみると、どれも無駄に小難しく気取っていて、よくこんな風に書けたものだ、とちょっと驚く。当時はまだコロナ・ウイルス流行のなか。ひきこもりの頭でっかちが高じてそうなったのか。今では同じように書こうと思ってもできないだろう。少なくとも自分にとっては、当時の自分が書いたものと、今の自分が書くものとの間には一定の距離が、変化があると感じる。

同じ感触が、自分が過去に書いた歌詞に対してもある。去年出したばかりのアルバムでさえ、そこで歌われた言葉たちは必ずしも近い場所にない。自分と言葉との連関、あるいは言葉同士の連関も、常に組み変わり、編み直されていく。例えるならいつかは「火」と「孤独」が接続していたとして、そのつながりが切れて、今は「火」と「安らぎ」とがセットで連想される、というような。もちろん、実際はそんなふうに一対一の単純な関係にあるわけはないけれど、くっついたり、離れたり、その結びつきは更新され続ける。辞書的な「意味」とは異なる場所で、言葉と世界とは関係している。

少し前に、多和田葉子・著『言葉と歩く日記』をめくり終えた。運動し続ける言葉のありようをつぶさに見つめ、絶えず検討し直すような態度で貫かれたエッセイ。いくつも付箋を貼って読んだ。たとえば著者は「言語には「言葉通りの意味」という絶対安全な足場はない」ことを若い世代に伝えたい、という。

「美人だと言われた」と娘が喜んでいたら、「あなたはそんなことで喜んでいるの?たとえブスでも、顔が美しければ同じことでしょう」と言ってやる。そうすれば、みんなが使っている概念イコール現実ではないのだということが分かるのではないか。言語はべったりもたれるための壁ではなく、壁だと思ったものが霧であることを発見するためにあるのだから。(『言葉と歩く日記』多和田葉子・著/岩波書店/2013年/p.76)

言語は「壁だと思ったものが霧であることを発見するため」のもの。すてきな言い回しだ。

言葉の硬直(『言葉と歩く日記』では、それが「瘡蓋化」「動脈硬化」など身体に結びついたレトリックで何度も表現されている)にあらがうことは容易でない。ある種の定型文、常套句に回収されていく世界への抵抗。秩序だった「当たり前」を常に疑うということ。「壁」を離れ「霧」のなかへと身を投げ出す、たゆまぬ実践のうちにはじめて、言葉と生きることの新鮮な実感が生まれる。それを怠ったならば、死した言葉の地層に取り込まれ、いつかは化石になりかねない。

「あなたって、パターンしかしゃべらないんだ」(『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ(上)』富野由悠季・著/角川書店/1989年/p.27)

ふと最近鑑賞した「ガンダム」作品(密かなマイ・ブーム)の、あるキャラクターの台詞を思い出す。会話の中で、ほとんど自動化した脳みそで「パターン」だけを出力している。我ながらそんな時もある。エネルギー節約のため、などともっともらしい理由をつけて。実際、身の回りのあらゆる物事をすべて新しいものと受け入れ、吐き出し続けようとすれば、わたしたちの脳はたちまちキャパシティ・オーバーで焼き切れてしまうだろう。世界に押しつぶされないために、言語によって仮初の「足場」を組む。そうして生きている。問題はその「足場」を信頼しすぎることだ。

日々フレッシュに、言葉と世界と向き合うことは可能だろうか。可能だとしたら、どんな方法で? ラップや詩、あるいは今書いているような思いつきの文章だって、無理矢理にでも手元の言葉をシェイクし続ける、揺るがそうとする試みのひとつと言えるかもしれない。

今も、新しい作品のためにラップの歌詞を書いている。作詞がうまくいかないときは、硬直している。うまくいきすぎるときも、たぶん硬直している。静止していてもダメ、かといって運動が自動化・効率化されていても、ダメ。微妙なあわいの感覚をすりぬけるようにして、とつ、とつ、言葉をつむいでいく。

その作業に辛うじて意味や意義を見出せるとするなら、少なくともその試みの最中は答えが「留保」されているという点にある。そう、手を動かし続けているあいだは、可能性としての「新鮮な言葉」に対して、開かれた状態にあるはずなのである。結果、自分のこしらえた文字の羅列がどのくらい「パターン」の外側へと突き抜けられているかと言えば、それはもう怪しいもの。しかし、それでも、だ。もしも言葉によってまだ見ぬ世界の姿に触れたなら、どんなに素晴らしいだろうか? そんな淡い希望とともに動かすペン先にこそ、創作の、歓喜と共にある生の理由が息づいている。だからこそ、やめず作り続けている。作り続けていられるのだと思う。(2025.5.17)

 
maco marets