【#17】ブルーベリーに水をやること【Sandwiches'25】
関東郊外にある少し大きめの園芸店のようなところに行く機会があり、せっかくだからと(なにが「せっかく」なのかは不問とされたい)ブルーベリーの苗木とローズマリー類のハーブを数株買った。本来は屋外で育てるものだけれど、自宅の庭やベランダは狭く園芸に不向きなつくりになっているので、代わりになるべく明るく風通しのいい窓際に鉢を置いている。ここ数日の気温や湿度にやられたか、その枝葉はちょっぴりぐったりしているようにも見えて、心配。やっぱり屋外に植えてあげないとだめか。とりあえず、いくらか水をかけておいた。
まったく自慢できることではないけど、植物を買ってもいつのまにか枯らしてしまうことが多い。今度こそ、今度こそ、と意気込んでは毎度忙しさにかまけてその世話を怠ってしまう。なにかをきちんと手入れする、手入れし続けるというのは、簡単なようでむずかしいことなのだ。部屋の掃除とか、ブログの更新とか。植物に限らず、なんでも。面倒くさい、と思ってしまったらもうおしまい。
自分の身体についてもそう。いつだったか「増えていく体重を気にしている」というようなことを書いた気がするけれど、じっさい身体が以前より重く感じる、20代のころよりどうにも疲れやすくなった実感がある。全身のシェイプもこころなしか、ふっくらしたようだ。例えば顔、小学生のころから下ぶくれの顔立ちだったのが余計にこう、おかめ納豆のようにふっくらと……わたしの友人みなよくできた人ばかりなので、「そのふっくらが良いところなんじゃないの」「痩せなきゃ、とか思う必要ないでしょ」などと言ってくれるが、にしてもね、見た目はともかくとして、機能の衰えはやっぱり問題。ミュージシャンとしての活動はなんだかんだフィジカル、体力が要ることは間違いのない事実で、だって、ステージ上でのパフォーマンスはもちろん、その準備過程、楽曲制作やリハーサルにだって身体は使う。歌う身体そのものが商売道具。その意味で、ほんとうはもっと真剣にメンテナンスしないといけないのかもしれない。とても真似できる気がしないが、とあるラッパーはパフォーマンスの体力作りのため毎日何kmも走る、という逸話を聞いたことがある。
そういえば。中学~高校時代、わたしは吹奏楽部に所属しサクソフォンを吹いていた。入部した理由は「音楽が好き」の前に「運動が苦手だから」も大きかった、それが入部してみると筋トレやらランニングをたくさんさせられるではないか!サックスパートの先輩が言っていたのはたしか「ただ楽器を吹くんじゃなくて、全身を楽器にして音を鳴らすんだ」、云々。その場でふるえ、反応する身体への意識が求められる点はスポーツとなんら変わらない。運動部・文化部という対比関係にあるとしても、文化部イコール「無運動部」ではないことを痛感したのだった。文化・芸術が脳みそだけの営みと思っていたら、それはとんだ勘違いらしかった。なにを表現するにせよ、言葉に先立つかたちでまず、身体があるのだ。
だからか、言葉を通じて身体に働きかけようとしても応えてくれない、思うようには形作れないし、動かせない。イメージの中の自分の身体と、実際のそれとはどんどん距離が開いてしまうばかりだ。例えば筋トレやエクササイズになんらかの喜びがあるとすると、それは、イメージと実際の身体とのズレを限りなくないものとできる、という点にあるのかもしれない。身体のままならなさを少しでも克服できるならば、そんな効果があるならば、すごい。克服したような気になる、というだけのことだとしても。「自分の身体のことなんてなにもわからない、ぽかーん」という状態よりは、「こう意識したらこう動く」とか、ひとつでも知れていたほうがうれしいだろう。思うさま飛んだり跳ねたりできたら、きっと気持ちいいだろう、と思う。
ただ実際のところわたしたちの身体は今しがた書いたような「こう意識したらこう動く」なんてシンプルな構造にはなっていないはずで、その複雑な連関を把握することがどれだけ困難かしれない。ひとりひとり細かな性質の違いだってあって、またその性質は変化していく。「自分の身体」とはいうが、「自分の」なんて烏滸がましいくらいに、それはよそよそしく、理解しがたいもののようにも思える。先に書いた自身の容貌の変化だって(もはや老化か)、望んで促したり止められるわけもない。「あれ、こんな顔だったっけ、ぼく」。ある朝、目覚めてそう感じる。息があがる。足が重くなる。それはもう、「そういうもの」なのだろう。そんなことは分かったうえでなお、付き合っていく。身体の複雑系を捉え続ける試みの手段として、言葉はどれほど有用だろうか。
前に読んだこんな一節を思い出す。
いくつもの層が重なり合うことでしか発揮できない言葉の力があって、それは身体とも関係があるんです。身体って全部が同時に存在するからこういう身体なわけで。手の指しか使ってないと思っていても、やっぱり足はあるわけです。そういう重層性をもった身体を私たちは生きていて、それに寄り添うことができるのは、やっぱり、書かれた文学の言葉しかないと思います。
(『六つの星星 川上未映子対話集』川上未映子・著/文藝春秋/2012年/p.152)
詩であれ、小説であれ、書かれた「文学の言葉」の連なりが、ままならない身体そのもののレトリックとして働いてくれるならば。それ自体言葉の罠かもしれないが、なんとか身体のすべてを見失わずにいられる、可能性はありそうだ。
むしろ問題は、そうしたままならない身体のありようを目つめ、寄り添えるだけの誠実さで「書く」ことができるかどうか。その力量があるかどうかかもしれない。それはきっとブルーベリーを枯らすことなく育てられるか、というのとも同じ。対峙し続ける、水をやり続けることの必要が問われているのだろう。(2025.5.24)