【#18】バビロン行き、方舟桜丸【Sandwiches'25】

 
 
 
 

リチャード・ブローティガン『バビロンを夢見て 私立探偵小説1942年』(藤本和子・訳/新潮社/1978年)を読んだ。うだつのあがらない自称「私立探偵」の男、C・カードが、謎めいた美女からの依頼がきっかけで、わけもわからぬまま一夜の事件に巻き込まれていく物語。

C・カードは身の回りのあらゆる人間から金を借りまくり、返済の催促をかわしながらゴミ部屋に住んで暮らしている。物語の時代設定は第二次大戦中だけれど、彼は徴兵すらもまぬがれてしまった、まさに不能の男として描かれる。唯一の趣味は、白昼夢の世界――バビロンにトリップし、妄想の物語を生きること。悪のロボット軍団との対決、美人秘書ナナ=ディラットとのロマンス。B級映画顔負けの筋書きをひたすら夢想して過ごしている、まるでだめな中年だ。詳細はネタバレになるので書かないけれど、物語の最後には結局、一攫千金の夢に破れ、もとのみすぼらしい生活に戻ることになる。

とりたててドラマチックでもなく、他のブローティガン作品と比して詩的なイマジネーションに富んでいるかといえばそうでも、なさそう。それでもなお面白く読んだ、とても好きな小説だった。

たとえばふふ、と笑ってしまった箇所をひとつあげると、C・カードがかつて「スペイン市民戦争」の戦場で臀部に受けた銃創の真相。かつての戦友にそのわけを問われるも、「クソをしていたらすべって、自分のピストルに尻餅をついてしまい、その結果ピストルが暴発し、おれのけつの両方のホッペタを貫通し二つの見事な穴をあけた」、あまりにマヌケな事の顛末を彼は語らない。「すぎたことはすぎたことだ」とかなんとかカッコつけてごまかすのだ。めちゃくちゃださい! ださいが、この負け犬っぽさ、しょっぱいプライドだけを引きずっている愚かしさにわたしは共感する。ついつい自己投影しながら、肩入れして読んでしまう。

物語中盤、「もしかして今回はうまくいくかも?」と思わせる展開もあるけれど、やはりか一発逆転の奇跡は起きない。結局は負け犬のままの、あわれな主人公。まったく爽快感のない、安易な成功へと着地させてくれない物語が、自分は好みなのだと思う。

いまふと思い浮かんだので書いておくけれど、それは「こち亀」的なフォーマットにも近いかもしれない。両津勘吉が「負け犬」かどうかは置いておいて、ほら、新しい商売を初めて最初はうまくいくんだけど、途中で調子に乗って自滅しちゃう、みたいな。そういうタイプの話運び、あるよね。その雰囲気である。「現実は甘くないよ」とかそういうペシミズムに浸りたいわけではなくって……なんだろう、欲望に負けて失敗する人間の弱さ、愚かさにこそ愛嬌を感じるというか。ホッとする、とかいうとなんだかきなくさいが。

ほかにも連想して浮かぶものでいうと、野坂昭如『エロ事師たち』とか、田中小実昌の作品にもなにか似た雰囲気のものがあった気がする、あとは安部公房の『方舟さくら丸』か、これも主人公がしょうもない失敗をしでかす展開があり、それがとても好きで印象に残っている。

『方舟さくら丸』では、来る核戦争と世界の終末にそなえてシェルターを建造していた主人公の<ぼく>が、ひょんなことから外部の人間をそのシェルターに受け入れざるをえなくなり、生存の権利をかけた諍いが起きる。その渦中で、彼は足をすべらせてトイレの便器に落ち込み、片足が抜けなくなってしまう。

足が滑った。左足が爪先から、すっぽり便器の穴にはまり込んだ。(…)体をささえようとして、うっかり排水用の支柱を摑んでしまった。長いパイプの中を、水の円筒が落下していく重量感のある響き。万力で締め上げるような陰圧が、栓になってはまり込んだ足を、さらに深々と引きずり込む。もがけばもがくほど、吸い付きがよくなり、ふくらはぎの辺までくわえ込まれてしまった。

(『方舟さくら丸』安部公房・著/新潮社/1984年/p.264-265)

さーっと、顔の青ざめるさまが浮かぶような、執拗な落下の描写がもう面白い。こうして便器に囚われた<ぼく>は、身動きできないままシェルターを巡る闘争を続けることになってしまう。当然、あれこれと手段を考えて脱出を図るのだけれど、なかなかうまくいかない。だんだんと自暴自棄になっていくその様があまりに滑稽で、笑いをさそう。

冒頭に紹介した『バビロンを夢見て』の主人公、C・カードも排便中に銃を暴発させる不運に見舞われた過去があったわけだけれど、トイレというのはなにか、人の気を油断させてしまう場所なのだろうか。さすがに自分の尻を撃ったり、足から便器にはまり込んだことはない。でも、こうした生理的な欲求にまつわるところに限って、多少なり愚か(かつ、ちょっぴり下品)なトラブルを起こした経験ならない、ともいえない。そのやるせない気分はありありと想像できる(わざとまどろっこい言い方をしています)。

人はくだらない間違いをおかす。失敗する。醜態をさらすこともある。そんな「ださい」姿を、しょぼくれたムードをしょぼくれたままに書いた物語は正直で、好ましいと思う。もちろん、時にはカッコつけて「すぎたことはすぎたことだ」なんてお茶を濁す、その虚栄心も含めて愛すべき人間のありようだ。自分の愚かしさに溺れそうになりながら、それでもなんとか生きている。そうだ。片足を便器、あるいは墓穴に突っ込んでいたとしても、生き続けることは可能なのだ。それがわかって、うれしいのかもしれなかった。(2025.5.31)

 
maco marets