【#19】梅雨とめまいと【Sandwiches'25】
梅雨らしく、まばらな雨が降り続いている。天候の変化に弱いわたしの頭はずきずきと痛んでばかりで、とにかく頭痛薬が手放せない。あんまりダルそうにしているからか? 見かねた同居人から「気圧外来とか、行けば」と睨まれるが、悪天候のなか遠方の病院を訪ねる意欲も湧かず「うーん、そうねえ」と生返事だけ返して、あとはごろりと横になったり、ソファでクッションにうずもれたり。休み休み、あいまに仕事をしている感じ。こんな調子では捗るものも捗らない。ほんとうはもっと危機感を持つべきなのだろうけれど、だいたい毎年がこんな感じなのだった、もう慣れてしまった。静かに、巣穴にうずくまる獣のごとく過ごす季節。
ぐんにゃりしたまま、夜には映画を観るなどしている。ここ数日は気まぐれでヒッチコックの映画を『裏窓』『泥棒成金』『めまい』『ダイヤルMを廻せ!』と立て続けに鑑賞した。もはや古典といっていい作品群だろうけれど、2025年の今観てもとても面白くて、2時間くらいの尺があっという間。スターシステム的に登場する俳優の存在感……特にグレース・ケリー(上述のうち『めまい』以外の3作で主役級の役割を果たしている)の可憐さ、ジョン・ウィリアムズ(作曲家ではなく俳優の方)のちょっとトボけた紳士ぶりは素晴らしい。それから軽妙・洒脱な台詞回し。スマートなカメラワーク。サスペンスフルなストーリー進行もあいまって、ひとときも飽きさせない。気づけば、頭痛も忘れるほどに引き込まれている。
『定本 映画術』という、フランスの映画作家・トリュフォーによるヒッチコックへのインタビューをまとめた分厚い本がある。きっと映画ファンのあいだでは有名な本なのだろうと思う、ゆく先々の古書店でその背表紙を見かけていたから。それをこの前、ようやく手に入れた。じっさい、ヒッチコックが自身の監督作についてどんな風なことを言っているのか、知りたくなったのだ。いまだぜんぶの章に目を通すことはできていないけれど、鑑賞済みの作品に触れた箇所をちょこ、ちょこと拾い読みしてみた。
わたしと同居人のあいだで好評だったライトなタッチの冒険譚『泥棒成金』について触れた箇所では、その内容について「まあ、どうでもいいような、くだらない話だった」とバッサリ。ほかにもところどころ自作に対する辛辣なコメントが見られ、職業作家的な側面というか、作品に対するドライなまなざしが垣間見える。どれだけ観客の心を惹きつけられるか、魅力的な映画を撮ることに徹した、職人としてのストイックさの表れだろうか。
印象的だったのは『めまい』の項。原作小説とは異なる構成(小説版では最後のサプライズとして用意されている「ブルネットの女」の正体が、映画版ではその人物が登場してすぐ、観客にだけその正体が明かされる)を選んだことについて、ヒッチコックは「(原作小説を読んで)主人公がブルネットの女に出会ったとたんに、もう、それからどうなるか知りたいというたのしみが全然ないと思った」と語る。
わたしは母親の膝に抱かれて話を聞く小さな子供の身になって考えてみた。母親がちょっとでも話しやめると、子供はすぐ、「ねえ、ママ、それから、どうなったの?」とたずねて、話のつづきをねだるものだ。
(『定本 映画術』トリュフォー・著/山田宏一、蓮實重彦・訳/晶文社/1981年/p.250)
観客はせっかちな子供と同じだ。「この人物は誰なんだろう?」というひとつの疑問だけでは、彼らの目を映画の最後までつなぎ止めるのに十分でない。だからこそ、ヒッチコックはその答えを途中で明かすかわりに、「それを知った主人公はどうなってしまうのか?」という新しい問いを投げかける。観客は作中で仕掛けられたトリックの答え合わせにとどまらず、倒錯したひとりの人物の感情の推移を、欲望の末路を固唾をのんで見守ることになる。なにをしでかすかわからない、予測不可能な人間の心のありようこそが、最大のサスペンスを生む。おそらくそういうことではないかと思う。単なる謎解きゲームで終わらない、二段構えの問いかけ。
素人目に観ても、こうしたヒッチコックの語りの巧みさは今なお古びていない。むしろあらゆる映画の基礎となっているもののように思われて、いや、単に古典映画の経験が少ないせいで新鮮に感じているだけ、と言われたらそれまでかもしれないけれど。とかく、画面に釘付けにされるような、ハラハラする映画体験の妙を再確認したのである。
なんせ、一緒に観ている同居人が一切、居眠りをしない。わたしがロボットアニメを観ている横ではいびきをかくほど爆睡していた彼人が、だ。ヒッチコックの語りの魅力を理解する上で、それ以上の証明もなさそうだった。(2025.6.7)