【#21】Re: 左のほっぺが痛むわけ【Sandwiches'25】
先週辺りからずきずきと左の奥歯が痛んでしかたなく、これも親知らずのせいであろうとたかをくくっていたらあまりの激痛に飛び起きる、どうにも眠れない夜がある。これまでは我慢できる程度だったけれど、なんとなく、今回はやり過ごしてよい限度を超えている感じ。むくむくと頭をもたげるバッド・フィーリングに、歯医者に行くことを決めた。何年ぶりかもわからない、久方ぶりの検診だ。家からほど近いクリニックに予約を入れ、出かけていった。
「どうされましたか」の問いにしどろもどろ、歯がひどく痛む旨を伝えると、いくつかのかんたんな検査の後にレントゲンを撮ることになった。痛みの原因はきっと、親知らずが頭を出してほかの歯を押しているから。それだけだ。そうに違いない。祈るように診察室に戻ってゆくと、振り向いた担当医が目だけでうすく微笑んでいる。「これは、虫歯ですねえ」。
まさか。小さなころから検診のたび「健康な歯だね」と言われ続けてきた、それだけが取り柄とさえ思っていた自分が、虫歯だなんて。冗談じゃない、とディスプレイに表示されたレントゲン写真によくよく目をこらしてみれば、ほかの歯が白く浮かび上がっているなか、左上の親知らずだけがなにやら真っ黒に沈んでみえる。「これはもう、内部が崩壊しちゃっているんですねえ。だから映らないんです」。担当医は軽い調子で続けた。「こうなったらもうどうしようもないので、抜くしかありません」。
前回、バックナンバーとして2022年に書いた「左のほっぺが痛むわけ」を再掲した理由がなんとなくわかってもらえただろうか。3年前にもあった違和感を放置した結果、あろうことか今、わたしの親知らずは「崩壊」しかけていたのである。考え得る限り最悪の伏線回収。上顎に潜む暗黒に、血の気が引くような思いがした。思えば、会社勤めをやめ、定期検診に行く機会を失ったころからだろうか? 自身の身体についてはひどく大雑把な認識であった、ろくなケアもしてこなかったツケを払うときが、とうとうきてしまったのだ。
このクリニックでは親知らずの抜歯を行っていないため、別の専門医院に紹介状を書いてもらい、数週間後に抜歯の予定が決まった。しかも、左上の1本だけではない。左下の親知らずも「虫歯のリスクが高い」状態らしく、せっかくなら同時に2本(!)抜いてしまうのが良いという。これまでも抜歯の経験はあるが、同時に2本、しかも虫歯状態の親知らずとなるとどんな施術になるのか想像もつかない。「せっかくなら」とかいうマインドでぽんぽん抜歯していいのかとも思うが、術後の腫れと痛みは一度にまとめてしまったほうがお得、ということだろうか。なんにせよ、仕事への影響を考えても通院は少ないに越したことはない、か。ここまで来たらもう、覚悟を決めるしかなかった。
情けないもので、30歳にもなって虫歯にかかった事実は気分をすっかり落ち込ませる。2本の歯を引っこ抜くとなれば、なおさら。ふだんの歯磨きの仕方が悪かったのか。歯だけの話ではない。やっぱりどこか、自分の身体との向き合い方を間違えていたんじゃないだろうか。全身のあちこちになにかしらの病理が潜んでいる気がして、いっそう恐ろしくなる。健康志向なんて縁遠いものと考えていたけれど、ケアを怠った結果、当たり前に享受している日常が脅かされることもあるとすれば。それは嫌だ、少しでもヘルシーでありたい、と感じる。
しかし、どんなに健康であろうと努めていても、病むときは病む。壊れるときは壊れる。つい、あらゆるものは老いる、劣化する事実を忘れてしまう。なにもかもがあたう限り健やかなまま、ずーっとぴかぴかのままで、いてくれたら――そんな欲望がちょっとだけでもないとは言えない。なんだって壊れてなんていないほうがいい、きっと。そう思うときもある。
それはありうるはずもない永遠への憧れで、裏返せば死への恐れとも言えるものかもしれない。自分はもちろん、誰か、大切な人や、モノだって、本当ならずっと失いたくない。喪失への対処法はそう多くない。今回はたかが歯だし、別にそれを失うこと自体は気にならないけれど。何かが壊れていく、その不可逆な変化に気づけないことは怖い。
抜歯まではまだもう少し時間がある。とりあえず気分を落ち着かせるため、ポジティブな側面を想像しているところだ。ちょっと顎のラインがすっきりするんじゃないの? とか。滑舌がよくなったりするんじゃないの? とか。また、ろくに調べもせず適当なことばかり浮かべていて、そんなところがダメなのか。(2025.6.28)