【#24】光り凪まで【Sandwiches'25】

 
 
 
 

抜歯からの抜糸を終え、バッシバッシ、ようやっと通常通りの食事ができるようになってきた。おかゆやうどんばかりですっかり気が滅入っていたから、肉や野菜、パン類など、口にできるだけでずいぶん嬉しい、何もかもが美味しい。モノクロームの世界が再び色付くように、暮らしの喜びの、息を吹き返すのを感じている。

同時に、停滞していたmaco maretsとしての活動もそろそろ再開できる見込み。というか、8月初旬にはレコーディングとライブの予定がすでに決まっていて、もはや待ったなしの状況なのだけれど……不在の違和感と、それに伴う鈍痛をもラップの動機と変えて歌えるか、どうか? 問われれば、今はなんとなく楽観的に「いける」と答えられる、ポジティブな傾斜が生まれている。それは良いことだ、たぶん。

今は石牟礼道子・鶴見和子の対談集『言葉果つるところ<新版>』をめくっている。石牟礼道子は熊本県天草に生まれ、水俣で育った詩人・作家。水俣病事件を題材にした『苦海浄土 わが水俣病』等の作品で広く知られる。人間と自然とを繋ぐ「霊的」な感覚を失わずに描き続けた書き手であり、わたしは『苦海浄土』のほか、『食べごしらえ おままごと』『魂の秘境から』といったエッセー集も好んで愛読してきた。

その手に編まれた詩文の数々は、現代の都市生活者であるわたしでは到底感得し得ないような「精霊」あるいは「カミ」とでも呼ぶほかない魂の領域を写していて、読むものに啓示めいた何か、ひらめきの光をもたらしてくれる。近代化した知性とは異なる姿勢で自然と関わり続けた「庶民」の、どこまでも豊かな洞察が広がっている。

天に光りを投げ返すのは、あぜ道にかぎらない。漁師たちが、なめらかな布を広々と敷いたように穏やかな不知火海を見て、「きょうはひかり凪じゃ」とつぶやくとき、光りのひと粒ひと粒が踊るように、天との間を行き来している。薩摩との境あたりの石飛山から、ときおり精気のように立ちのぼるのが見えるのも、こうした光りのことである。/それは光りであり、生命の源とも予兆ともいえる。

(『魂の秘境から』石牟礼道子・著/朝日新聞出版/2022年/p.167)

かつて漁師たちが言祝いだ「ひかり凪」、生命の予兆を、わたしはわかるだろうか。いやーーこの問いは反語にならざるを得ないだろう。「わかる」と言えば欺瞞だ、なぜなら不知火海のそれを見たことがないから。ただ。その情景を描かんとした石牟礼道子の言葉に触れたとき、今まで知る由もなかった「光り」のイメージが読者の内に立ちのぼる。それはどんなにか美しい手触りとして、消しがたい印象を残してくれるのである。その予兆を、わたしも見ることができたら。そう思わずにはいられなくなる。

わたしは昨年リリースした『Calling』という曲で、この「ひかり凪」という語彙を借用してラップを歌った。それはせめて自分の詩のなかでその「光り」を幻視したいという(極めてエゴイスティックで、軽率な)欲望の発露であったかもしれない。良しざまに言うならそれは祈りのようなものと呼べるかもしれないけれど…… そう言えば『言葉果つるところ』で、石牟礼・鶴見の両人が「人はなぜ歌うのか」言葉を交わすパートがあった。そこで、歌の理由について石牟礼道子はこう話している。

いつも、よりしんとした美的な世界に自分を連れてゆきたい。そこは彼岸かもしれない、それと繋がりたいという気持ち……。(中略)自分の生命を預かってくださっている、どこか遠いところ、あるいはすぐ身近にあって自分をすっぽり包みこんでくれている存在の光とでもいうのか、その光に対して、これでいいんでしょうかって……。そうですね、祈りですね。

(『言葉果つるところ<新版>』石牟礼道子、鶴見和子・著/藤原書店/2024年/p.96)

彼岸とは死、また死を含む生命そのもののありようだ。それに触れるためのまさしく「祈り」として、歌があるというのである。そうだ。「ひかり凪」をつぶやく漁師もまた、「彼岸」を見ているのかもしれない。だとしたら? ふと、思う。不知火海の漁師は歌ったのだろうか。それとも、漁師の目を持たないものが、歌うのだろうか?

しかし偉大な先人の「祈り」に読み耽り、そこに描かれたイメージこそを「彼岸」として希求しているようでは、その歌は真なる「美的な世界」には到底辿り着けないではないか。わたしがやるべきことは、石牟礼道子の描いた「ひかり凪」を言葉遊びのように消費することではなく、(もはや我々が霊的な感受性を持ち得ないことを自覚しつつも)自らの暮らしから彼岸へとつながる間(あわい)を見つけ出す、言い換えれば生命の源を知る、そのための試みを続けることなのかもしれない。

もちろん、自分の詩がそうした領域に肉薄しているものとはとても言えない。それどころか、稚拙な混乱から生まれたような、とりとめもない歌ばかりだ。だからこそ、まだ書き続ける必要があるのだ、と、また祈りのように言い聞かせる。まだ見ぬ彼岸を目指して。道のりは果てしなく、しかし歌は手元に尽きずある。それは十分に、希望のはずだと思う。(2025.7.26)

 
maco marets