【#30】アーモンドミルクを注ぐ人類の午後【Sandwiches'25】

 
 
 
 

アーモンドミルクでコーヒーベースを割ったものが美味しく、家ではそればかり飲むようになった。牛乳より、甘すぎないのがいいのかもしれない。作業するとき、本を読むとき、必ず傍にはグラスを置いている。たまに、チョコレートとか、ドーナツなども一緒にあるとなお嬉しい。最近は体重が増えるばかりなので、本当はお菓子など控えた方が良いのはわかっているけれど。

いま手元で開いているうちの一冊は、堀田季何『人類の午後』なる俳句集。正直なところ、わたしはふだん俳句作品を読んだり、書いたりする習慣がない。松尾芭蕉や与謝蕪村、あと『まんがで学習 おぼえておきたい俳句100』(小学校のころに「4コマ漫画が載っている」という理由だけで何度となく読み返した思い出の一冊)は今でも本棚の手に取れる場所に置いてあるが、現代作家の俳句集を買ったのははじめてかもしれない。読まないことにとくに理由はないのだ、ただ、きっかけがなかったというか。

ではなぜこの本を手に取ったかと言えば、わたしも参加させてもらっている東京・青山ブックセンターの選書フェア「333人が、この夏おすすめする一冊。」で、愛読しているある作家が挙げたタイトルであったからだ。自分の好きな作家が推す作品なのだから、それは読まねばならん、とろくに中身もあらためずレジに運んだわけだった(個人的に、自身の購買行動におけるこの種の軽薄さは「あって良し」として生きている。好きな人が、好きなもの。そりゃ知りたいに決まっているもの)。

実際読んだ感想としては、とてもよかった。普段から俳句を嗜んでいる人からするとなにを今さら、と思われるだろうが。五・七・五という限られた文字数で魅せる、凝縮の美学。無駄なく研磨された言葉は鋭く、まっすぐ、美しい。

題材としては戦争、コロナ禍など、タイトルにある通り「人類」全体に関わるイシューがふんだんに盛り込まれていて、ただ季節の移ろいを叙情的に読む、というものでもない。現代の俳句には、こういう方法があるのか。その射程の広遠さに驚くことしきりだった。また、「銀行地下金庫人食鮫眠る」とか、ほぼ漢字の列挙で成立している言葉遊び的な軽妙さをもった句もあって、その振り幅が面白かった。

一点、難儀したことといえば、今この文章を書いているエディター上でもなかなか出力できないような、常用漢字とは異なる旧字体の漢字が平然と並んでいることだろうか。文脈や音と照らしてなんとなく類推できるものもあるが、じいと睨んでも一向に読み方のわからない漢字も、多々。

特に難解な字についてはルビがふられていたりするけれど、逆に言えばルビのない感じは読めて当然でしょ、ということなのか。そうなると悔しいもので、なんとか辞書を使わずに読もうとしてしまう、ときには確信の持てない読みのまま次のページに行くこともある。これは昔から変わらない、自分の悪い癖である。じっさい何かの思い込みで誤った読みのまま覚えてしまった漢字がいくつもあり、何度となく恥ずかしい思いをした。

本当はもっと「読めない」と感じたその場でじっくり立ち止まるべきだろう。しっかり読みと意味を調べ、その字が使われた意図に思いをめぐらせて。そうした態度が望ましいことはわかっているつもり、けれど、その「読めなさ」から辞書や検索ツールに手が伸び、読書が中断することの口惜しさは拭えない。

少々曖昧でも読み進めてしまって、他の句を読んだときに「あ、この字はこういう意味だったのか、間違ってた」と気づく瞬間なんかもあって、それはなぞなぞとか、暗号を解読するような喜びにも近くて。それはそれで、楽しい読書だと言えないだろうか。まずは先へ、先へとめくってしまう。それから答え合わせくらいのつもりで調べる、読み返す、という順番でもよさそうだ。

というか今回、わたしはそうして『人類の午後』を読んでしまった。辞書を引くためにいちいち手を止めることをせず、「読めない」箇所はその本の中にヒントを探す、足りなければ想像で補う、というやり方で。

本を開いて難しい言葉が出てくると「ゲッ」と思うのは当然だけれど、その「読めなさ」の感覚に罪悪感を覚えたり、深刻に捉えすぎたりしなくてもいいのではないかと思う。

もちろん、勘違い、曲解のままにその読書を終えてしまっては勿体無い。「どんな解釈も自由!」というのは少し傲慢だろう。作者の目指した表現をなるべく正確に汲み取ろうとする態度は必要だ。それでも、どうしても「読めない」箇所に関して一時的な留保を与えるのは、別段悪いことではないと感じる。まずは言葉の連なり、並ぶ字形をそのままに感じる。意味は後から。それで何の問題もないはずだ(当然、本のジャンルにもよるだろうけれど)。

そんな読みは、あまりにせっかちだろうか。そもそも、「漢字の読めなさ」と「意味内容の読めなさ」を一緒くたにしてしまうのもおかしな話かもしれないけれど……。

ただ、わたしは「読めない」という感覚が好きだ。そのことは確かに言える。なんせ、自分にとっては「読めない」箇所にこそ真に未知なる領域が広がっているわけで、その豊かさ、喜ばしさと言ったらないだろう。さきほど「難儀」とか「悔しい」といった言葉を使ったけれどこれは正確でなかった。むしろ「嬉しい」、だ。

己の読み方と想像力を試される、打ち震えるような興奮。それを知ってしまうと、「読めるものだけを読む」読書は少し退屈でさえある。本は「読めない」ときこそ面白い。……だいたい、この世に自分の知らない字があるなんて、とても贅沢だ。すぐに意味を調べてしまうなんて、ちょっともったいない気もするでしょう? そういうこと、です。(2025.9.13)

 
maco marets