【#29】ためにならない【Sandwiches'25】

 
 
 
 

いつのまにか8月は終わり、9月にいる。今月はいつにも増してあわただしい。毎週末のライブイベント出演、それに付随するリハーサルや、レコーディング。準備中の最新アルバムに関連した作業もまだまだ残っている。

今日は1日、自宅で仕事をしていた。詩を書き、曲を書き、メールを返し。合間に読書。それから最近ハマっている、アプリのゲーム。

実際のところ、この社会の「平均」と比べてしまえば大した仕事量ではないのかもしれない。が、自分は怠け者で、キャパシティも小さい。普段より予定が多いだけで、すぐにあっぷあっぷしてしまう。情緒もなんだか安定しない。気分の上がったり、下がったり、子どものようで情けないなあとは思うけれど、なかなか変えるのも難しい。チョコ味のスーパーカップやらなんやら、甘いものばかり食べてこれも良くない。

たまたまなのだが、最近になって旧い知り合いからの連絡が多くある、メールの通知を見るたびドキリとする。中学時代の友人から。大学の同級生から。一時期働いていた会社の元同僚から。要件もまちまちで、結婚式の招待とか、アンケートとか、さまざま。

やりとりをするなかで、「久しぶりに会いましょうか」となったりする。下手をすれば10年以上も顔を合わせていない相手もいて、果たして何を話せばと不安の兆す、その感覚自体がちょっぴり嬉しいような、恥ずかしいような、不思議な気分が湧く。

しかし恐ろしいのは、他人からみた今の自分の姿である。例えば10年前と違う人間に見えるのか、それとも「変わらないね〜」なのか。会う人によっても印象はいろいろだろうが、ただ現在、ラッパー/詩作家などという肩書きを振りかざして暮らしている、どうにも(社会的に)ふらふらした人間であることは事実だ。

経てきた年月に相応の顔つきができていればいいが、もちろんそんな自信はない。若さゆえの、無根拠な自信顔はもう出来ない。鏡を覗けば、ただただ情けなく弛んだほっぺの、着古したくたくたのTシャツなどを着た自分の、丸まった背中の。到底、立派な大人の姿とは思えない。

とはいえ、見た目の話で済むならまだいい。なんにせよ老いは避けられないものだし、そのこと自体を悲観的に捉える必要はないはずだから。やはりか、問題は中身。

畢竟、わたしはちっとも「立派な大人」にはなれていまい。はじめに書いた通りで子供っぽい趣味・性格はちっとも変えられていないし、年齢相応の思慮深さなどかけらも得られていない。仕事のやり方、周囲とのコミュニケーションの取り方だって、おおよそ拙いものだ。それでもなんとか暮らしを続けていられるのは、ひとえに周囲の人々の優しさ、温情の賜物である。

各分野のプロとして活躍する友人・知人の働きぶりをみていると、自分のスタンスがいかに適当なものか、何度となく思い知らされる。自身も決して少なくない量の仕事を抱えながら、それでも嫌な顔をせず、楽しそうに、maco marets を手伝ってくれる人たちがいる。

人を助けること。当然のようでいて、それは簡単なことではない。誰かが限られた生活の時間を割いて、作品に関わってくれることの得難さ、ありがたさにはただただ頭が下がる。ああ、大人ってこういうことか、と思う。ほんとう、多くの手を貸してもらってなお、自分のことで精一杯のわたしとは大違いだ。

もしかして:わたしは誰かを助けたいのか。

少しでも他者のためになることをしたい、というその欲求そのものが利己的にすぎる、その自覚はあるはずだが、それにしてもわたしはあまりに自分の足元しか見ていなかったのではないか、と感じる。生きる世界との関わり合いを放棄して、内省に耽るばかり。それではいつか、愛想をつかされてしまうのではないか。与えられたものをただ享受するだけでは、不誠実(という言葉のいやらしさはなんだ、と思うがあえて使うことにする)ではないか。不安なのだ。そうして不安になれるほど、周りからの愛に恵まれている、とも言えるが。

しかし、「他者のためになる」のが「立派な大人」の条件だとしたら、それはそれで恐ろしい考え方でもある。別に誰のためになっていなくとも、人は生きていていいはずなのだから。思いやりや愛は金銭ではない。

いや、ここで書きたいのはそういうことだったのか。すぐに行き詰まったような気分になるのはなぜだろう。本当はそんなこと、どうでもいいのか。考えることをすぐサボる、これも子どものゆえんか。それは子どもに失礼だろうが。簡単な話のはずが、混乱しているのはわたしの悪いクセだろうか。

なんにせよ「大人」という概念がそもそも虚像なのだ。自分はどうありたいか。周囲の人に対して、どう関わりたいのか。あるいは……、どう見られたいか。それだけ。きっとそういうことだ。自らの性質は「なかなか変えるのも難しい」とは冒頭に書いた、最初からわかっていた。自由にコントロールなんて、できはしない(そもそもわたしとわたしの性質は主従の関係でもないから、支配はできないし、またされることもない)。

もしや。わたしに足りていないのは、そうした自己認識を補完するための「関わり」の総量なのかもしれない。ここまで読んで、「もっと外に出て、人と話してみたら」などと思われた御仁、きっとその通りである。久しぶりにあう知人こそ、優しく、そして冷静に、今のわたしの錯乱を指摘してくれることもあるだろう。恐ろしがったり、忙しぶったりしている場合ではなかった。誰かと、もっと、何度でも、話すべきなのだ。

望むと望まざるとに関わらず、9月はそんな月になる。予感だけは、ある。(2025.9.6)

 
maco marets