【#28】老いは時を急ぎ【Sandwiches'25】
新型コロナウイルス罹患にともなう休養を終え、ようやく制作中のアルバムのレコーディング作業を再開することができた。その前には親知らず抜歯の療養期間もあったから、前回の収録からなんだかんだと1ヶ月も間が空いた計算になる。
休養前に歌唱パートはあらかた書き上げていたものの、1ヶ月経つとまた気分が変わってしまっている部分もあり、収録作業にはいつもより時間がかかった。歌っていて「なんとなくしっくりこない」感覚がどうしても消えない。それに、自分の発声にも違和感がある。特に低い声が思うように出ない気がする。
抜歯の影響なのか、コロナの後遺症で咳が出ているのでそのせいか、もしかしたら両方かも? いつになれば「いつも通り」の声を出せるかもわからないから、そのまま歌い続けてなんとかその日を終えた。
もちろん直近にかかった病気の影響もなくはないと思う。ただ、そんなこととは別に、どれだけ健康体であろうとわたしたちの身体は日々変化し、老いてゆく。こうしているあいだにも、細胞はどんどん入れ替わり続けている。昨日と同じ自分、「いつも通り」の自分でい続けることはできないのだ。
あたりまえのようだけれど、過去のある時点の自分と同じパフォーマンスをし続けるのなんて最初から無理な話。日々変化する身体(ついでに心)の状態と向き合い、そのときどきの表現を模索するしかないのだろう。自分の発声に変化があったとして、それを元に戻そうと後ろ向きの努力をする必要がどれほどあるか。
少し話がずれるかもしれないが、デビューアルバム『Orang.Pendek』(2016)と、現状の最新作である8thアルバム『Wild』(2024)、およそ8年の隔たりがある両作を比べてみればすぐわかる。この2作は、発声、ラップのスタイル、リリック、何もかもが大きく異なっている。当然、自ら意識して変化させた部分もあれば、なかば無意識のままに、勝手に変わってしまった部分もある。なかには先ほど書いたような身体の「老い」に関係した変化も多く含まれているはずだ。
作品を聴き続けてくれている方からすれば「この時期のラップが良かった、好きだった」「この時期のは苦手」とか、さまざまな意見があるだろう。maco maretsの配信楽曲に関して言うと、やはり初期のアルバム楽曲が多く聴かれている、それは作品を作り続けるなかでだんだんと聴き手の望まない変化が起きてしまったから、かもしれない。
とはいえ起きる変化の多くが、それがどう受け止められるかもふくめてアンコントローラブルなもの。それに抗おうという気はない。仮に「昔の方が良かった」と言われても、その「昔」のような曲は作りたくないし、や、そもそも作ろうと思っても作れないだろうし。
コロナに罹患したとき、強い喉の痛みに「もし、このまま歌えない状態が続いたらどうしよう」という考えが何度もよぎった。声色が変わるだけならまだしも、「歌えない」となればまた話は別だ。もしそうなったら、当然これまでやってきた表現の方法そのものをあらためざるを得なくなる。ラップをする、歌を歌う以外のやりかた。それを探すことになる、可能性はいつもある。
もちろん、変わるのは自分だけではない。わたし、あなた、関わりあうおおよそすべての人、モノ、皆が等しく変化する。それらの関係も同じだ、常に、フルイドにうつろい続ける。叶うなら皆が喜ばしく、健やかな姿のままであればうれしいが、きっとそうもいかない。
ちょうど数日前に、同居人の実家で飼っている犬が(まだシニアと呼ぶには少し若い年齢にも関わらず)白内障にかかってしまった、とそんな話を聞いた。休日にはわたしもよく一緒に遊んでいる、無邪気で人懐っこい犬だ。その目が少しずつ白く濁り、視界は閉ざされようとしている。彼の元に訪れる闇を想像して、少し暗い気分になった。
老いを恐れる気持ちが具現化した「老いの悪魔」という存在が漫画『チェンソーマン』に登場していたけれど、その理由もわかる気がする。生きとし生けるものに訪れる、不可逆な時間の刻印。身体に起きる変化のひとつひとつをどう受け止めていけるだろうか。考えだすと、こわい。
もう一度レコーディングした楽曲を再生してみると、やはりか違和感の残る、ちょっぴり掠れたような声のラップが聴こえてくる。これはこれ、としてそのまま残すか、しばしの抵抗を試みるように、「いつも通り」に近い感触が得られるまで歌い直すほうがよいか。迷いはあるけれど、わたしは「そのまま残す」ことを選ぼうと思っている。
そうすることによって、デコボコした手触りが作品に生まれてしまう可能性はある。それでも、制作の途中で起きたいくつかの変化を無かったことにする必要はない。親知らず2本分の空隙とか。ウイルスで腫れた喉とか。なんなら喉だけではない、足の裏のタコ、やたらむける指の皮、お腹の贅肉だって……ぜんぶひっくるめて、今ある身体で歌ってしまえば良い。
なんだか、全部がうまくいかなかったときの言い訳に聞こえていたらいやだけど。どのみちそうするしかないのだし、ね。自分が目指しているのは、そういう「ままならない」身体と生きる時間の表現なのだと、そんな気がしているのだった。(2025.8.30)