【#33】ピリオドはオーナメント【Sandwiches'25】
近ごろ冷え込みがすごい。空は薄暗くぐずついて、じくじく、心細いムードは増していく。暮らしのさなか。ふと浮かぶ迷いも、妙な胸騒ぎとなってなかなか晴れない。部屋で飼っているトカゲたちは、じっと寝床の隅に身を寄せて動かなくなった。毎年のことではあるが、こころよい秋はほんの一瞬だ。すぐに凍える季節がやってくる。
つい先日、客演などを除くソロ名義では久しぶりの新曲『S.S.S.』をリリースした。今冬発表予定の最新アルバム(仮)からのシングルカット。あまり派手な曲ではないけれど、当のアルバムが過去作と比べてもかなり落ち着いたトーンの作品になっているから、それを代表する意味では適当な楽曲だと判断した。ついでに、サビで歌う「熱いミルク」なんてワードがこれからの冬に合うんではないか、とそんな軽率な連想も理由のひとつ。
タイトルは、歌詞にも出てくる「シュガー、シュガー、シュガー」という繰り返しのフレーズから取ったものだ。1stアルバム『Orang.Pendek』に収録されている「S.N.S.」と似ているようで、まるで関連がない。ないが、実はどうでもいい法則のようなものはあって、1stから次の9thまで順番に並べたとき、奇数作(1,3,5,7,9作目)のアルバムには、タイトルの中にピリオドを多用した曲をひとつ入れている。「S.N.S.」「D.O.L.O.R.」「L.A.Z.Y.」「F.O.M.O.」そして今回の「S.S.S.」。
なにか壮大な仕掛けなどあればいいけれど、実際のとこ、こうしたタイトル付けはほとんどナンセンスな「お遊び」である。何かの省略形であるものと、そうでないものと、バラバラ。曲で歌われている内容になにか共通点があるわけでもない。ただひとつだけ言えるのは、トラックリストのなかでアルファベットの大文字&ピリオドがゴロゴロ並んだタイトルは目立つ、際だって見える。よって、アルバムのなかでも比較的リードトラック的な立ち位置の曲であることが多いようだ(「多いようだ」というと他人事すぎるか。もちろん、すべて自分が決めた曲名です)。
本来、音楽、あるいはその他のアートにおいてもタイトルはとても重要な意味を持つはずだ。作品に冠された名は、内容に先行してそのもののイメージを形づくる。コンセプトを表す。そのことは分かっているつもりで、なお、いささか短絡的な名付けに走ってしまう。何日も何日も考え抜いて決めた、何重にも取れる深い意味を込めた、とか。そんな曲名はほとんどない、かも……。ほとんどは、曲の中のワードをそのまま引っ張ってきているパターンか。あとは歌詞に直接登場せずとも、中心的なテーマとなった概念のようなものを置くとか。
自分が愛読している作家のひとりに、フェルナンド・ペソアというポルトガルの詩人がいる。いくつもの「異名」を使い分けたことで知られる作家だ。彼の詩には、題名がないものが多くある。しかしそれでは本にまとめるときに支障が出るため、編者が便宜的に詩の最初の一行、またはワンワードをタイトルに置いているものを読んだのだった、それに憧れたりもした(実はmaco maretsの第1詩集『Lepido and Dendron』においては一部、その名付け方を踏襲している)。
ただの思いつきだけど。今さっき書いたばかりの、「タイトルの重要性」。言い換えれば名前の、呪いめいた重力からなるべく距離を取ろうという態度が、そうした命名法には表れているのかもしれない。もちろん、言葉を使った瞬間からその場にはある種の傾きが生まれることは否めない。それでも、可能な限りベタつく意味のレッテルを剥がしていくような、その結果生まれる簡素でラフな名前のありかたの方が、好みであるように思われた。そう、これはどちらかと言えば個人的な趣向の問題だ。聴き手の側にどれほど想像の余地を残すか、という話にも繋がるだろうが。
そういえば、maco maretsの曲名はすべてアルファベット。歌詞から引っ張ってくると言っても、漢字・仮名文字を使うわけではない。多くが英語か、またはローマ字表記に変換されている。実際の歌詞はほぼすべて日本語表記で構成されているにも関わらず、だ。その理由も作品と名前=「意味のレッテル」との距離感を保つためと言えるかもしれない。
もっとも、それはきっと英語話者としてのバックボーンを持たないもの、「非ネイティブ」的な感性でもあるだろう。ネイティブからすれば、わたしが「ナンセンス」に扱うアルファベットの連なりにも意味の広がり、傾きが生まれているはずだからだ。当然、こうした言語の使い方には慎重になるべきであるし、わたし自身どこまで文脈の理解を徹底できているかどうか。誤る可能性は常にある。その点は自覚の上で、あとは受け手の評価に任せるしかないところか。
や! もっと曲の中身について書こうと思っていたのに、気づけばタイトルのことばかり。そのこと自体が「意味」付けの欲望、名前の呪いを脱することのできていない証拠にも思える。
「S.S.S.」しかり、ピリオドを装飾的に打ち込むようなワザも言ってみればひとつの手管だ。それをやっているうちは、ペソアのごとき「無題」の境地にはとてもたどり着けないような気がしてくる。他言語への変換や、ナンセンスに耽るのではとても足りない。
だいたい、呪いにでも変わってくれれば御の字だ。わたしの唱えた名前は、その元にある作品は、おそらくまだなんの魔術的効能も発揮できてはいまい。言い訳めいた「お遊び」もそろそろ頃合い。ではどうするか? ひとまずは今冬リリース予定のアルバムで、可能な限りを問うてみたい。(2025.10.25)