【#32】木枯らしまでに【Sandwiches'25】
最近はすっかり涼しくなったので、エアコンのため締め切っていた窓を開け、網戸から外気を部屋に取り込むようにしている。秋風はすっきりと乾いていて、心地いい。ざわざわ。通りの木々の触れ合う音。鳥のさえずり。小学生のけたたましい笑い声。いろんな音が耳に届いて驚く。
昨日なんかは、表を周る焼き芋屋の歌がひっきりなしに聞こえていた。「いしやあああきいいもおおおお……」遠くなったり、近くなったり、ひび割れたスピーカーの歌声はしばらく止まず、ああ、このあたりの住人には苦情を言う人もいそうだな、などとどうでもいい心配をした。
焼き芋だけではない、この辺は豆腐屋も大きな笛の音を鳴らしながらよく通る。孤独なお祭り神輿のように表を賑わすそれらの音音は、いつまで残るものだろうか。令和の今、いつか騒音としてキャンセルされてしまうのではないか。そう思うのは、どこか自分自身が「うるさい」と感じているからかもしれないけれど。
今、『自然の断章』(串田孫一・著/講談社/1978年)というエッセー集を読んでいる。著者のエッセーはこれまでも愛読してきたが、この『自然の断章』は1編が見開き2ページで終わる短い文章を編んだものでとくに読みやすく、ゆえにその技量の高さを窺い知れる内容になっている。文字組みからざっくり計算すると最大で600字、原稿用紙で言えば1枚半くらいの、短く美しい随筆たち。
実は、このブログもここまででだいたい600字だ。見てわかると思うが、わたしは同じ文字数を使ってもぼやぼや、くだらない導入を示すことくらいしかできない。しかし(当たり前のことだけど)串田孫一は違う。
著者が自然に向けるおおらかな眼差し。ふとしたきっかけから紡がれる思惟の道筋。書かれた季節の情景は一つひとつが紙幅を超える豊かさをたたえている。まどろこっしい言葉は使わない、素朴な語りのなかにも洗練されたリズムがある。たった2ページ読み終えただけで、「ああ、いいものを読んだ」と思わせるような、じんわりとした余韻を含んだ文章なのだ。1編まるまる引用することはできないので、実際のところは読んでもらうしかないが……
たとえばこのブログの冒頭、わたしは秋の空気についてなんでもないことをぱらぱらと書いた。『自然の断章』に収められた「別れの時」という題の1編がある、その最初のパラグラフを引いてみる。
「雨が上がって夕暮の空が赤らんできたので庭へ出た。深まる秋の匂いが漂っていた。落葉を焚く季節にはまだ早いような気がしたが、枯葉を掃き集めると煙を立たせたくなった。湿った葉はすぐには燃えなかったが、軈て青紫の煙が立ちのぼり、秋の匂いの主題が焚火の匂いに移った。そして何となく救われたような気持になった。」 『自然の断章』(串田孫一・著/講談社/1978年/p.222)
「秋の匂いの主題が焚火の匂いに移った。」とはなんと情感に満ちた一言だろうか。枯れ落ちる木々を眺め、著者はこれまで経験した幾多の「別れ」の感触が去来する時を認める。末尾には「生きている限りは別れは続く。」と、そっと添えるように書き置かれている。
また別の箇所を引こう。秋風にゆれる木々を見つめた「木々の声」から。
「「万壑樹声満、千崖秋気高」という杜甫の詩があるが、樹声という言葉が心にしみわたる。木々の声も秋になると、ただ騒々しく叫んではいない。もし私にこの木々の声を十分に聞き分けられる耳があれば、こんな風の日に、まだ緑を多く残している林の小径を歩いて、生命の意味を教わりたいと思う。」『自然の断章』(串田孫一・著/講談社/1978年/p.209)
「生命の意味を教わりたいと思う」こんな一文がさらりと嫌味なく書かれているところがすごい、と思う。それはつぶさに自然のありようを見つめ、その声を聞き取ろうと耳を澄ませ続けたものだけに許される問いかけ。真摯な言葉であると感じる。
この『自然の断章』は1975年の秋から1977年の秋までの2年間、朝日新聞の土曜日の朝刊(「Sandwiches 's25」と同じ土曜の朝だ!)に連載されていたものを順番もそのままに収めたものだという。つまり、本の冒頭・中盤・末尾はそれぞれ秋が主題となっており、なんだか物寂しいこの季節の空気がとくべつ強い印象を残す。書かれたころから50年もの年月が隔たった2025年10月の今、この一冊に手を伸ばしたのはまったくの偶然であったけれど、そこにある「心細さ」の表現には、変わらない人間の生理を見るようでもある。
串田孫一はこの文章を書いたころ、数え年で63歳。自分はまだその半分も生きてはいない。が、今のままではあと30数年を経たとしても、たとえその時に同じような「心細さ」を抱えていたとしても、これだけ素直に自然と向き合うことができるとは思えない。「木々の声」を聞きとるための聴力は、イヤホンの「ノイズキャンセル」機能に象徴されるような、「聞きたい声だけ聞く」欲望にかき消されようとしている。目や鼻も然り。
しかし、あらゆる「ノイズ」を排したすえの無音の世界にあるのは、きっと自らの言葉さえ信頼できなくなるような不気味な沈黙だけだ。この世はどうにもうるさい。そのうるささを不快ではなく喜びとして迎えられるよう、窓はなるたけ開けておこう。気づけば秋は終わる。そのうち吹き込む北風に、どのくらい耐えられるだろうか? それはそのとき、試されるだろう。(2025.10.18)