【#35】夢の街【Sandwiches'25】

 
 
 
 

以前もどこかで書いたか、自宅周辺の再開発工事は容赦なく進行している。つい先日、よく足を運んでいた近場の書店が閉店してしまった。ここら一帯では一番大きな書店で、新刊のチェックに毎週のように出かけていた場所だ。とてもショックだった。駅前にあった別の書店も少し前に潰れていた、これで最寄りの書店がすべて消失したことになる。とうとう、電車に乗らないと本を買えないようになってしまった。

わたしの暮らすエリアは、東京都心から少々離れた、ただし郊外というほどは行き過ぎてもいない「準郊外」とでも言うべきところだ。23区内への出勤が可能で、かつなるべく安く、広い場所に住みたい。そんな欲望に応えるべく、ひたすら住宅地としての利便性に特化したような。鉄道会社の思惑によってすべてがデザインされているかのような街である。駅近くに大型スーパーとチェーンの飲食店。あとはひたすらマンション、マンション。

ただでさえ文化的な経験をさせてくれる場に乏しいなか、最後の牙城というべきが書店の存在であったのに(その存在がわたしをどんなにか安心させてくれていたのに)それらも全滅してしまった。もはや最寄り駅への愛着は尽きかけている。今の家に住み始めて5年、そろそろ別の場所を探してもいいかもしれない。というかお金さえあれば、すぐにでも引っ越しを検討するのだけど。お金さえあれば、ねえ。

何かのYouTuberの企画で、「自分の理想の街を作ろう」みたいな企画をやっているのを見たことがある。その街に自分が住むとして、家の周りにどんなお店が欲しいか、好き勝手に並べていくのである。たとえばお気に入りのファストフード店や、ファミレス、アパレル店や雑貨店。各人が自分の望む街のありかたを発表していた。わたしだったらやはり、書店をいちばんに入れるか。あとは美味しい定食屋か、ラーメン屋でもあるとうれしい、などと想像した。

もちろん、自分の欲しいものが買える、食べられるということだけが「理想」かというとそれも違うだろう。理想的な街、理想的な暮らしとは、行政、地域の歴史・文化的背景、コミュニティのありかた、あるいは生理的な身体感覚(なんとなく気持ちいい風が吹くとか)など……無数の側面から検討されるものだと思う。「本屋と、あとラーメン屋さえあればいいや」というものではない(なるべく絶対、欲しいけど)。豊かさとは、物質的な充足だけではとても測れない。いま暮らしている場所に感じるなんとなくの「味気なさ」の正体も、その辺にある気がしている。

というか。自分はどんな場所で、どんな暮らしをしたいのか。あまり真剣に考えてこなかったのかもしれない。

わたしの両親は、いまのわたしの年齢のころには結婚し家を建て、子育てを始めていた。市の中心部からも、両親の職場からも離れた場所で、利便性がよいとは言えない。見渡すかぎり山と田畑ばかりの、田舎である。家自体も頑強な鉄筋住宅などではなく、ログハウス的な木造建築。アウトドア趣味が高じてそうなったのか、詳しい経緯は聞いたことがないけれども、あえて都市的な生活とは距離を置くようななにか「理想」とこだわりがあったのだと思う。

なんにせよそうした生活のイメージ設計と、それを実現するために行動が(貯蓄含め)できていたことに驚く。異なる時代の話であることを差し引いても、自分にはとても真似ができない気がするのだ。や、この際お金のことは置いておこう。それでもなお、どこに住みたい? どんな家に住みたい? これといった答えがなかなか、出てこない。じゃあ例えば、どんな部屋がいい? と、それくらい範囲を狭めてようやく、なんとなく浮かんでくるものがある。作業机があって、たっぷりの本棚があって。それで?

なんだか、自分にとってイメージ可能な生活の範囲が「部屋」、外部とは切り離された個人的空間にまで狭まっているようにも感じてしまう。先ほど自分で書いたような、「行政、地域の歴史・文化的背景、コミュニティのありかた、あるいは生理的な身体感覚」なんかも含めた暮らしのありようを想像できなくなっているということかもしれない。

「どんな暮らしをしたいか」と問われても、出てくるのは自分が快適かどうかばかり。共同体や他者の存在は、いつの間にかイメージの外に追いやられている。それはあまりに典型的な、現代の都市生活者といった趣か。書きながら気づいてしまった。そうだ、自分が閉じこもるための「部屋」さえあれば、その外のことはどうでもいい。どこかでそう思っているのではないか? 書店がなくなっても、通販があるし。まあ、いいか。場所や人との関わりなんてなくていい。それが本音かしらん?

いや、そんなはずはない。少なくとも、わたしが書店を必要と感じていたのは決して「欲しい本が買える」という機能だけが理由ではないのだ。店まで歩く道のり(長く待たされる横断歩道、息が上がるほどの坂道、スイミングスクールの塩素の匂い、いろいろ)、そして店内で偶然出会う本たちの存在。そこにいる人々が醸す、空気の密やかなうねり。五感に飛び込むあらゆる情報が、その場所にいることの意味と愛着とを育んでくれていた。飛躍した言い方かもしれないが、暮らしの孤独を感じずにいさせてくれていたのだ。別に、そこに知り合いがいたとかいうわけでもない。景色も、人も、全部が他人だ。それでも確かに、その場を分かち合っているのことの実感があった。

最初の方で「文化的経験」などとという言葉を使ったけれど、別に「文化的」であることは大事ではないのかもしれない。確かな「愛着」を感じられるような場所が、部屋の外にある。孤独を超えた結びつきを生むような場所。街。人。自分にとっての「理想」はそのあたりにヒントが隠されていそうだ。といっても、結局、地名のひとつも浮かばないが。

や。つまるところ地図の上でなく、探索すべきは他者との関係そのものだろうか。ユートピアは。(2025.11.15)

 
maco marets