【#37】怪獣坊ちゃん (後編)【Sandwiches'25】

 
 
 
 

(今回の記事は「#36 怪獣坊ちゃん(前編)」の続きです)

すっかり落ち着いていた怪獣、特撮作品への情熱が再び燃え上がることになったのは、大学時代。2014年のハリウッド版『GODZILLA ゴジラ』でゴジラシリーズが約10年ぶりに息を吹き返したかと思えば、翌2015年に同じく10年ぶりの新作として制作された『スター・ウォーズ フォースの覚醒』が大ヒット(この「続三部作」の出来は結果的に大きな落胆をもたらす結果になったけれども、ね……)。さらに続く2016年には決定打となる『シン・ゴジラ』が登場し、またも特撮全盛の世がやってきたタイミングだった。

とくに『シン・ゴジラ』を映画館に見に行った日のことはよく覚えている。学部の友人から「新しいゴジラやばいらしいよ、観に行こうよ」との誘いを受け、新宿のTOHOシネマズまで出かけていった。(なぜか)レイトショーだったので鑑賞後すでに終電はなく、新宿から西早稲田の友人宅まで歩いて帰ったのだけど、その間、ひとときも会話の止むことはなかった。あのシーンがすごかった、あのキャラがよかった。二人とも興奮して、しゃべり続けた。

不気味で、圧倒的な厄災として突如出現する怪獣・ゴジラ。次第に進化していくビジュアル含め、CGで表現されたその存在感は懐かしさだけでない新鮮な驚きを届けてくれた。また、そのゴジラに対抗する人間たちのテンポのいい「会議劇」と、描かれる作戦の模様も愉快だった。怪獣映画とはかくも面白いものだったのか。幼いころ覚えた胸の高鳴りを、その夜、確かに思い出したのだった。

その後、『シン・ゴジラ』に監督・特技監督として参加している樋口真嗣なる人物が、「平成ガメラ」シリーズ(1995〜1999年)の特撮を手がけていたことを知り、あらためてそれらの作品群にも触れることになる。「平成ガメラ」三部作といえば、怪獣映画の歴史においても抜きん出たクオリティを誇り、今なお多くの特撮ファンから支持を受ける人気シリーズだ。

(ちなみにわたしは小さいころ「平成ガメラ」第3作目である『ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒』を鑑賞したことがあったが、怪獣・イリスに襲われた人間がミイラ死体になる、ショッキングな描写がちょっとしたトラウマになっていた。観た方ならわかるだろうけど、けっこう怖い映画なのだ。だからか、ゴジラやウルトラマンシリーズと比べてどこか異質な怪獣作品として認識し、敬遠してしまっていた)

『シン・ゴジラ』の魅力のひとつであるリアリスティックな「災害シミュレーション」としての怪獣描写は、「平成ガメラ」の遺伝子を汲むものだと言える。大人の鑑賞にも耐えうる……というより、大人になったからこそ楽しめる、怪獣特撮の新たな一側面を知った。そこからはもう、どハマりだった。

小学生と違って、学生とは言えバイトもしていたから自由に使えるお金は多少ある。それで、昔見ていたゴジラ、ウルトラマンといったシリーズの映像ソフトや関連書籍、ソフビ人形・フィギュアなどを買い集めるようになった(とくに怪獣のソフビにはひときわノスタルジーを喚起されてしまい、ついつい財布の紐もゆるむ。結果、コレクションは増え続けていて、ダンボール何箱分もの怪獣がクローゼットに収まっている始末だ。いくら同居人から睨まれようとも、捨てることはできない)。あらためて怪獣、特撮を愛好するようになったのがこの時期だったと言える。

それから現在に至るまで、話題になった『ゴジラ -1.0』をはじめ新作の「ゴジラ」作品やウルトラマンシリーズ(現在、「ニュージェネレーション」シリーズという括りの新作ウルトラマン作品が毎年放映されている)はあらかた鑑賞している。先日は「ガメラ」シリーズ60周年企画として有楽町のマルイで開催された「ガメラEXPO」といった催しに足を運んだばかり(貴重な造形物を直接見られる、ファン垂涎のイベントだった)なのだが、そうしたリアルイベントに参加することもある。相変わらず、ソフビも買う。

熱狂的なマニアには到底及ばないだろうけれど、いつか抱いた、怪獣への愛着は尽きることがない。どうしてこんなにも惹かれるのだろう。先ほど書いたような、作品の面白さや、魅力的な造形が理由だろうか。それとも、それ以上の「なにか」があるのか?

ふと思い出し、ウルトラマンシリーズの監督を務めたことで知られる実相寺昭雄(じっそうじ・あきお)のエッセーを開いてみた。

ウルトラのころは、東京オリンピックも終わって、日本が経済成長の波にのっているころだった。新幹線が走りはじめ、土木工事はいたるところで起こり、道路は民家を潰し、高速道路も街を圧し、超高層ビルが建ちはじめたころである。東京をはじめ、各地で古いたたずまいは壊され、山は切り崩され、樹々はなぎ倒され、地は掘り返されころだ。/その状態の中で、時代の間尺に合わなくなったもの、地に宿る霊、樹々の精、といったものが消えゆく宿命を背負って"怪獣"というかたちを結んだことは間違いないだろう。(…)だから、感情移入は滅びゆくものへの挽歌という趣になった。/怪獣を自然そのものの象徴として捉えたのは、『ゴジラ』の本多猪四郎監督だったが、その考え方は、"ウルトラ・シリーズ"にも脈々とつながっている。怪獣のいとおしさというのは、そこにある。

(実相寺昭雄『怪獣な日々』筑摩書房/2001年/p.87)

怪獣のいとおしさは滅びゆく「自然への憧憬」からくるものだと実相寺は書いている。「文明の反証」だとも。この解釈がどこまで一般的に受け入れられているものかはわからないけれど、怪獣という存在に対して覚える畏怖にも近い感覚を、的確にあらわした一文であるように思える。

巨大な怪獣たちは、いつも居心地悪そうに、街を破壊して歩く。「どこにも自分の居場所がない」とけんめいに主張しているようだ。圧倒的な質量の正体が、いずれ消えゆく存在ゆえの、悲哀の重さならば。そのもの悲しさこそが、観るものの共感と愛着を呼ぶのかもしれない。先日ネットフリックスで配信された映画『フランケンシュタイン』のプロモーション動画で、監督のギレルモ・デル・トロ(大の怪獣好きとして知られる)もそのようなことを言っていた。

しかし自然への憧憬とは結局、ノスタルジーなのだろうか。それが滅ぶさまを哀れむとは、文明側の欺瞞か? 連想は際限なく続く。では現代の「怪獣」はどうか。必ずしも滅びゆく「自然そのものの象徴」として描かれているとは限らないだろう。さまざまな「憧憬」の依代としてそれは表現されてきたし、今後もされるはずだ。

わたしたちは怪獣を見るとき、ただその姿を見つめているわけではない。着ぐるみであれ、CGであれ、虚構の存在である以上その生き様は作り手の刻印した宿命とともにある。その意味を、情念を同時に透かしみているからこそ、ただのモンスター、クリーチャーといったもの以上の迫力を持った「怪獣」たるそれが立ち上がる。

結局のところ、自分がなぜ怪獣に惹かれるのか、その答えはよくわからないままだけれど……。とかく、あのいとおしい巨大生物が背負う時代の宿命を、それに抗おうとする姿を、破壊される街並みを、わたしは眩しく見つめずにはいられない。怪獣は吠える。支配されてなるものか! そんな声にも聞こえる。硬直した現実を突き崩してくれる、最強のアナーキー。やっぱりかっこいい。怪獣はかっこいいのだ。だから好きなのだ、と思う。

ただ。「怪獣が趣味」とはなんだか、言わないほうが良かったなあ。こんな駄文を拵えてみても、ろくな答えがないものな。どこかでまた、ちゃんと考えてみます。(2025.12.6)

 
maco marets